「激動の学生時代を生きぬいて」
商大14期 奥村 直幸
私は、第14代体育委員長を務めました、奥村直幸と申します。
我々の時は、70年安保の真最中の時代でした。学内においても早々に新入生オリエンテーションの時、応援団による新入生入部勧誘における部室軟禁問題で、マスコミに叩かれました。幹部は大分の臼杵まで自動車部の車で出向き、親子を説得し復学をしてもらい、事なきを得ました。帰り道では、やまなみハイウェイで夜中に車のガス欠をおこし、朝まで阿蘇一の宮の入口で車中泊した事を思い出します。
学内では当時、自治会費740万円を4委員会で分配争いをし、結局、体育委員会は440万円を獲得し「つるぎ荘」において、33サークルと徹夜で折衝した事を思い出します。
又、日常についてはセクトの学生が学園紛争に明け暮れていました。商大の校舎の一画は、革マルの本拠地で反戦闘争委員会の根城でもありました。昼も夜も正門前から学舎・体育館とあらゆる所に立看板とビラ張りで、お互いに取り付けたら取り壊すイタチごっこでした。我々役員は、昼は寝て、夜は革マルとの戦いの繰り返しでした。
又、丁度我々の時から九州インカレを学生で運営しようという気運が高まり、熊本県体育連盟、福岡体連、北九州体連、長崎体連、鹿児島体連が主体となり、福岡で何回も会合を開き、開催にこぎつけました。熊本においては、熊本大学との定期戦、5大学(商大・熊大・県立大・工業大[現・崇城大]・東海大)による大会、商大では託麻祭、江津湖駅伝大会と催しを行い、役員・学生が一丸となりスムーズに開催出来た事を思い出します。
また、夏場体育の顧問でありました林田敏貞先生が亡くなり、学園葬が体育館で執り行われ、学生代表で弔辞を述べたのですが、学園紛争中で部室に寝泊まりしていた私は、色ものシャツしか持っていなくてそのまま出席し、蒲池教授から嫌味を言われた事もありました。幸い何も読まず遺影に語り掛けた内容が良く、誉められました。
11月には尊敬していた三島由紀夫が、楯の会の4名の会員とともに、市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面総監部に押し入り、自衛隊隊員に決起を促す演説を行った直後、割腹自決をしました。私は悲しくてその夜は当時大学のそばにあった専売公社の裏の公園で、酒1升、焼酎3合を25分でラッパ飲みし、飲み干して3日酔いした事を覚えています。
我々の学生時代は政治的にも非常に難しい時代でありましたが、すべてに一生懸命、目標に向かって頑張れる時代でした。
現在はいろんな規制の中での生活を余儀なくされる時代になりました。義理と人情がない時代になってしまいました。今こそ良き時代を思い出して見直す時だろうと思います。もう一度初心に帰り日本人として又、志文会の一員としてお互い頑張りましょう。