「学風は人生の礎」
商大10期 大山 剛
第二次世界大戦時、満州に徴兵されていた伯父が帰還せず、戦死したものと無骨墓地で13回忌も終えていた頃、風の便りで「熊本市」で家庭まで持って生存している等の情報が断片的に入ってきた。伯父の父親は生存を確認するための準備にはいった。
しかし、アメリカ施政権下の厳しくも、貧しい時代、おいそれと直ちに確認の為、日本本土(熊本)に駆けつける事には時間が必要であった。時の琉球政府が発行したパスポートは、米国民政府で思想信条もチックされた後、本人への交付であった。それに感染症証明の「イエローカード」も取得し、200ドル以内の持ち金で本土渡航が許されていた。生存を確認し、帰郷した頃、私は高校2年を終える頃であった。父親と兄二人が戦争の犠牲になっていたため、母親にさらに苦労を負わせての大学進学の夢は持てず、本土での就職をと考えていた。その考えを熊本の伯父に手紙を出したら、返信に「熊本商科大学」があるから熊本に来てくれとの嬉しい支援の便りであった。
でも経済的な事を考えると、進学には鈍る思いであったが、母親と長兄が、生涯この小さな島で人生を送るより、本土に出てみたらとの大きな励ましを受けたので伯父の下に行くことにし、パスポートやイエローカードの手続きをした。
石垣島から那覇市泊港まで600トンの船で24時間、1200トンの船に乗り換え那覇市那覇港から鹿児島の港まで28時間、3泊4日でやっと熊本駅にたどり着き伯父様との対面となった。
1963年熊本商科大学商学部へ入学を許され、建学精神の「師弟同行」、「自由闊達」、「全学一家」の学風の下人生の礎を学ばせて頂きました。不得意の商業簿記と第二外国語には悩まされ右往左往し、銀杏の大木に癒やされながらなんとか卒業する事ができました。ある日、甲斐弦先生の研究室に呼ばれた。先生が長年に渡って現場踏査で脱稿した西郷隆盛と西南戦争の小説「明治十年・ペンネーム森川 讓」を大山剛君恵存と署名入りで尊い本を頂いた。現在も悩めるとき、壁に挑戦する時は常に精読し参考にしている。「師弟同行」は南の小さな島でも息づいている。感謝に堪えません。
卒業の年1967年には琉球政府に採用され、本土復帰の年には沖縄県庁職員とされ、ドルから円への通貨交換や730交通変更など沖縄県の基礎的な施策を実践し、定年までの間には、自治省や厚生省病院管理研究所に派遣され、多くの県庁部署を経験して平成17年退職した。その年の9月に、南の美ら花グループ7社の一社として、「株式会社ゆい」を創設し代表取締役に就任、現在まで「地域のために地域とともに」を旗印に励んでいます。これまでの人生の歩みは、建学の精神に支えられた賜であります。熊本学園の隆々発展と同窓会志文会員様のご健勝を祈願し、愚文といたします。